やっぱり、心なしか日本人の人とこっちで会うと安心する。
こっちにくるときに「日本人ばっかでかたまってちゃだめだよー」とかっていろんな人にいわれた、私自身も別に日本人に限らず、どっか1つのグループで固まっていることを好むタイプではないので、そうはならないように心がけたし自然にそうなっている。
で、ときどき日本人の友達と話したりするとき
でもやっぱりちょっとほっとする。
でも、やっぱりそりゃそうだ。
同じ土地で同じ文化で同じ言語をつかって育っているのだから。
それは、日本の中で気の合うやつ、合わないやつがいるのおなじで
この異国の土地では、日本人の子たちは少なくともほかの国の人よりも
同じ環境でそだって同じ要素をもった人種であることに違いはないから。
だから当たり前に少しほっとするのだ。
それと同時に、違う国の友達と話したりするのは
わくわくする。いろんなことを知りたいし、
いろいろな違う感覚を共有してみたい。
言語を習得するのと同じように。
私が言語を習得するのが好きなのは(といってもしゃべれるくらいになっているのは英語だけだけど)でも少なくともほかの言語もとにかく知ることは好きだ。
それはなぜなら、自分がいままで使っていた言葉という容器に入っている感情や感覚をちがう容器にいれると、一つの容器だけではたりなかったり、
逆に自分が日本語ではいくつかの言葉を使わなければ表現できない言葉も
もう一つの言語には1つでその感情を表す単語があったりするから。
たとえば、ポルトガル語をブラジル人に1年くらいならっていたとき
saudageという言葉をならった。
その言葉は、曲のタイトルにもある言葉だが、寂しさ、懐かしさ、悲しさみたいな意味がある。決してシンプルな感覚ではなく、日本語で表そうとするといろいろな言葉が必要になる感覚だ。
逆に、日本語でいう「切なさ」という言葉を英語で表そうとすると
辞書でひくと「SAD」という悲しいという言葉しかなかったりする。
でも、悲しい、一つで切ないという感情は伝えられない。
だから切ない気持ちを感じるときのシチュエーションまで説明しなければ
英語では伝えきれないものがある
とかそんなかんじで、要はやっぱり
いままで自分が、これが形だとおもっていた言葉や文化が
いい意味で崩壊する感覚が
とても心地良い、今日このごろなのである。
今日の夜、パレスチナ人のマヤという女の子のうちにいくのだが
私が勝手にイスラエル人の友達も誘ってしまった。
どうやら、イスラエルとパレスチナは戦争中なの? らしい。
マヤはいいよ、気にしないでといっていたが、やっぱり二人が一緒にご飯を食べるというのは変なことらしい。
私にはどんなに想像してもわからない感覚だった。
今は、近くのカフェで朝からエッセイを書きおわって
とてもいい気分
愛