2013年3月アーカイブ

自分と世界の距離

ここ最近、本当にたくさん感じることや

書き記したい事が、あるのですが、全て書き記せなかったり

書き記す間もなく違うことが押し寄せたり、するわけです。

しかし結局、何かを書き記すというのは、

自分の心の動きを落ち着かせるためだったりします。私にとっては。

ただ、動くままに指を動かしてタイプしていくのですが、

そんなふうにすると、心が落ち着きます。

それは、人に話して、自分の何かが落ち着くのと同じやつです。

         

自分の中にある答えというのは、自分が想うよりずっともろいです。

前も書いたかもしれないし、いつも想う思考ではありますが、

「人は3Dだ」ということと

「人は世界との距離の中で自分を形成する」ということは今も変わらず想うわけです。

     

逆の順番で説明しますが、

人は世界との距離の中で自分を形成するというのは、

沼とか、クッションとか、形がかわるものに、何かを落としたときにその形ができることとか

何かと何かがぶつかったときの衝撃とか、

全てから説明されることですが、

たとえば、宇宙(そもそも宇宙がなんなのかわたしにはわかりませんが)の中に

鉛筆があったときに、鉛筆がどんな形か、細さか、柔らかさか

わからないでしょう。とおもうのです。

っていうかそもそも、それをどこかからか見ている人がいてこそ、その存在が確定されるというか

実証されるというか。

              

そこから「人は3Dである」というところに繋ぐわけですが、

私は、人のことをあまり嫌いになりません。

もちろん、この人好きだな、あうな、ちょっと苦手だな等ありますが、

この人は間違っている。と想ったりとか、この人のいう意見は悪いとか

って決めれない人間です。

それが自分のいいところでもあるとおもっているのですが。

             

それはあたりまえで、物も人も、性格や、物事も、

多面であるからこそなりたっていて、

内(自分)からしか見えないものもあれば、外(自分以外の世界)からしか見えないものもあるわけです。

それの事実が重なって「自分」なり「物」なりが存在する。

だから、どこから見える事実も、否定することはできません。

             

そーしていくと、自分の進む方向や、自分という実態に対して、

事実を把握することはほぼ不可能です。

        

不可能です。と想った瞬間

自分には絶対的に自信を持てる事実や、存在、意見なんてつかめません。

しかし、そうなると、結局は内(自分)から見える世界及び自分と世界の距離をひたすらじっと観察して

何かを導きだすしか方法がないのでしょう。