たまにはつらつらと書く。

できるだけ多くの人が「よし」とする答えが

必ずしも自分にとって「よし」であることはないということは
承知している。

だからといって、
自分が「よし」とする答えが必ず正しい答えであるとも想わない。

3年前くらいだったか
人は3Dであるという自分の中にふつとわいてでたコメントに
妙にしっくりきた。
おそらく自分のことを一番わかっているのは自分だと信じたいところだけれど
どうがんばっても「鏡」とか「写真」とかという平面だったり右と左が逆に映ったりするあまのじゃくなGismoを
使わないとどうがんばっても胸から下しか見えない。胸から下だって表だけだ。
自分の肩甲骨や腰骨なんて真正面からみたこともない。
背中は長いタオルを使わないと洗えないくらい、手も届かないほど遠い場所にある。

「あんたに何がわかるんだよ」と
家族や親しい人、もしくは全然親しくない仕事上の上司とか
まあそんな感情を抱くことはきっと人生のうちでだれもが一度は経験する感情な気がしている。
しかし「あんたにも何かがわかっている」場合があるというのが私がその日想った3Dだった。
どんな出来事がきっかけだったかなんてすっかり忘れてしまったけれど
自分で「全然違うよ」と想っても
それが全然違うかどうかは一生わからないかもしれないくらい不確かだと想った。
私は平面図ではないから、後ろ側も、上からも、斜めからも、いろんな角度があるわけで、
ある程度自分の想う自分と他人に受け入れられている自分のイメージが一致に近づけば近づくほど
生活はしやすいものだと想うけれど
とにかくそれは完全に一致することは絶対にない。

そして他人の目に映った自分像が、実際他人の目に映っている自分であることはまがいのない事実だ。
そこには事実がある。悪意をもってその他人が自分をなりふりかまわず否定する場合はのぞいての話だけれど。
だから、事実がある限り自分に見えている平面図だけを信じてはいけないと想った。
本を読むことはしなかったけれど
文章を書くことは毎日のようにしていた大学時代を思い出して
突然文章を書きたくなった。
想ったままにたまには書いてみようかとおもう。

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