記憶がふる時

ヨガが趣味です。

週に3回くらいはやります

アメリカにいた時から、ヨガを始めました。

留学中は朝7時からのクラスがあったからそれに毎日通ってました。

好きな理由があって。

 

 

私の友人の(といってもとても年上の方ですが)脳科学者の方が、

「脳みそはばかなの」といっていましたが

脳みそが整理しきれていない記憶のかけらのようなものが

ヨガをして、集中しきった瞬間にときどき降ってくるときがあります。

いつも、思いだすことの無いような幼い時のこと。しかもたわいもないこと。

こんな記憶がまだ私の心に生きていたんだなあと思うことがある

その瞬間を楽しんでいます。

 

この前ヨガをしたときは、

5歳から習っていたバイオリンの先生のうちの近くの景色が降ってきました。

そこは三叉路になっていて、その三叉路は、

例えば誰かと誰かが逆方向から向かって歩いてきたとしたら、

どっちかを通れば会えるし、どっちかをとおったらすれ違ってしまうような。

そんな風に道がつながった三叉路でした。

 

その景色の紐をたどるとすぐに、バイオリンのレッスンが終わったあと

先生のうちのドアをあけると

青とシルバーの間みたいな色の、普通のセダン。

そこにちょっと色メガネをかけた白髪の老人が、座席シートを倒して待っています。

私があけたドアの音でシートを戻し、こちらをむいて、

すぐに車のライトを点灯する。

 

私が助手席に乗るとき「ありがと」と小さな声でいうと「ん」というだけの私のおじいちゃん。バイオリンのレッスンは19時頃終わったりすることが多くて、うちの母も父も仕事で遅かったので、いつもおじいちゃんが迎えにきてくれて、おばあちゃんがごはんを作って待ってた。焼きそばだったり、スパゲッティだったりすることもあった。うちの母は焼きそばとかスパゲッティは、ランチには作るけど夕食に出すことはなかったから、その違いを子どもながらに楽しんでいた記憶がある。

 

そんなふうにいつも車で送り迎えをしてくれたおじいちゃんの命日は、忘れてしまった。

でも4月だった。

覚えているのは、今日のように桜が本当にきれいな日に、

おじいちゃんのお葬式に参列したことだった。

晴天で、桜が咲き誇る中、家族に見送ってもらってきっと喜んでるんじゃないかと思ったことを思い出した。

 

戦後、震災後、黙とうをするのとまったく同じなんだけど

この世からいなくなった人のことは、

忙しい生活の中でも思いだせる時に、できるだけ細かく思い出して、生きていたこと、生きていた時の様子を生きている人の心で確かめたいと思った

 

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