「ブログに書かなきゃ、残さなきゃ、ブログ書かなきゃ、まとめなきゃ」

「ブログに書かなきゃ、残さなきゃ、ブログ書かなきゃ、まとめなきゃ」

と思い続けてはや5日。気づいたらハロウィーンも過ぎ、11月になってしまいました。もう師走ですね。

 

かなり文字量の多いブログになるような気がしますので、

私のように文字を読むのが苦手な方は、読まないことをお勧めします。

 

私が「浜田真理子」に人生を変えられたことは

知っていらっしゃる方が多く、この文章を読んでくれているだろうとおもうので、割愛します。

でもこれからもたびたび「浜田真理子」論 については私のブログででてくるとおもいますので

その度に、12年前の情熱大陸で特集されていた「浜田真理子」との出会いが私にとって人生の大きな衝撃となり転機となったことは、手短かに説明をもうけつつ、語りたいとおもっておりますので、どうぞよろしく。(なにを誰によろしく?笑)

 

10月26日 夜

東京大学での講演と、そして代官山でのライブのために東京にいらっしゃった島根県在住のシンガーソングライター浜田真理子さんと、急遽デート。夕飯をご一緒しました。迷える子羊のような私の進路相談のために。笑

真理子さんとの全ての会話の一つ一つが面白かった。

そして幸せだった。やっぱりどう考えても幸せすぎる私の今の環境。

お食事が終わるころにギターの平岡遊一郎さんも合流。

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ああ幸せだなあと噛み締めながら帰路につき、

翌日10月27日 朝

東大の岡田猛 先生による「創造性の心理」の授業の中で

浜田真理子さんが講師としてトークセッション/ライブするというので、

朝からカロリーメイトを片手に東大の赤門を通り、張り切って参加。

トークセッションのタイトルは「歌をつくること、うたうこと。本日のハマダマリコ的こころ」

 

このあとからは、もう一度講演の内容を私の脳内を通り過ぎた後の形で書き出しますので、

浜田真理子さんの真意とは違う可能性があることをご了承ください。

 

Q1 歌っているときどんなことを考えていますか?

「心を込めて歌います」とかって言えたらいいんだけど、本当に「歌っている時何を考えているか」という質問に答えるとすると、「次は息継ぎ忘れないようにしなきゃ!とか、音程気をつけなきゃ」とかそんなこと考えています(笑) という真理子さん。

前にも話してもらった事あるけど、この後真理子さんが話題にした「涙ぬき」という言葉。

油揚げとかをお湯に通して油を抜くでしょ?笑 とか冗談を交えながら話してくれた「涙ぬき」という言葉。

悲しい曲も、切ない曲も、泣くほど嬉しい曲も、人の前に出る前に「涙(感情)を抜く」

一人で歌って涙が枯れるほどに、涙が抜けるほどして、から人前にでる。

私はこの概念を言葉にしてくれたことに感動。

 

表現者の生の感情なんて、ステージの上では

要らないんじゃないかとおもう。

 

それくらい、観客と、表現者と、楽曲は別々に存在して、

それを更に上から見る目が、表現者が持つべき大事な視点だとおもう。

そういうことをずーっと考えていたけど、真理子さんのいってくれた「涙ぬき」という言葉は

私にとってイヒ体験(break through、旭化成ってことです)。

 

Q2 質問を忘れた。

岡田先生ごめんなさい、質問内容を忘れました。笑

でも、回答内容は覚えていて、またbreak throughしたのでかきます。

真理子さんが20、30代の頃にやっていた演奏仕事。

島根県松江でのバー弾き語りしごと。

「日本語の歌は意味がわかっちゃって飲んでいるお客さんの会話の邪魔になるから」

という理由で「英語の曲をしっとりと弾き語りする仕事」

「会話の邪魔にならない音楽」=「聴かない歌を歌ってくれ」という仕事である。

 

ああ、ああ、ああ、ああ、

私の中で、この手の仕事を初めてしたのは結構昔かもしれないけど

演奏の仕事に種類があって、この種類の仕事があることを知ったのは

ボストンのバーでのライブ仕事の時。

ギターとサックスと私でスタンダードナンバーを歌ってたけど

誰ヒトリきいていない。でも楽しそうだ。音が消えると、あれ?消えたって感じになる。盛り上がって演奏すると楽しそうに人々は踊る。

そして其の時の経験をもとに、日本に帰ってそういう現場に出会うと、「私が歌ってんのに誰も聴いてないわ」なんて思わないようになった。音楽の大きな役割の一つだから、としっくりきたから。

 

とか、なんとか真理子さんの話をききながら、うんうん。そうそう。とおもう私。

 

そのあと、でも、真理子さんは続けた。

 

「でもね、だから聴いてもらわないための音楽を経験したら、聴いてもらうためにはどうしたらいいか」もわかるようになったのよね。

 

彼女はそういいながら3曲歌った。

いつもの浜田真理子さんの歌だった。

そしていつも通り、空間が真理子さんの声とピアノに集中し、

エネルギーが一つになる。聴かずには居られない歌を歌ってくれた。

 

彼女は更に言った

「自分テレビ」という言葉に私はまたもイヒ体験。

自分の歌う歌が、オリジナルであれ、どなたかのカバー曲であれ

イメージやメッセージは観客と自分は別々でもいい。

要するにみんなそれぞれの「自分テレビ」を見ている。

それが昔の思い出だったり、今のことだったり、他人の話だったり、

色々だとおもうけど。。と。

 

ステージに立つと、人の視線を浴びる。

最近、それがいかに「異常」であり「通常」の状態でないかを改めて感じる。

街を歩いてたって、私は人が振り返るほどの美人ではないし、モデルみたいでもないので

視線は浴びない。普通の人が、視線を浴びることなんて、

恋人に見つめられるか、何か悪いことをして叱られるときくらいだ。

「人の視線」「人の集中力」のエネルギーはすごい。

それが多数になって、自分にあつまり、

そして自分は「歌」というかたちでエネルギーを発信する。

そんなエネルギー集合体である「ライブ会場」で

私達は自分テレビを見始めるわけである。

 

表現者が発信するものをきっかけに、自分テレビを見る。

そのテレビの内容は、其の時の一人一人の状況によって変わる。

だからこそ、さらにそれは冒頭でふれた「涙ぬき」につながってくるとおもう。

要するに表現者の生の感情なんてそがれた「それ」を

どんな環境の人だって自由にその自分テレビに投影できるような生の「それ」を

発信することって、すごく難しいけどすごい本質的に重要なことなんじゃないかって。

 

意味わかります?

わたし、ちょっとわかんなくなってきました。笑

 

いや、でもさ。でも。

 

その翌日10月28日に晴れ豆で浜田真理子さんのライブを見て、改めて

私の疑問が全て解決されるようなそんなすばらしい空間でした。

 

 

かなり質の濃いインプットがありすぎて

もう私はかなり飽和状態。

 

そして、27日、31日と

2日間平岡遊一郎さんのギターを聴いて、

また涙を流す。私は彼のギターを聴くと、どんなに疑問だらけの私でも、

自分の今迄を全て肯定された気分になって、安心するんだ。

 

 

真理子さんが東大の授業で歌ってくれた一曲。