教会

今日は、日本人の友達とシンガポール人のクリスチャンの友達につれられて

日曜日の教会にいった。
ミサの最中、私はなぜかひたすら号泣してしまった。
正直なぜか全然わからないけど、
そんなことも、ちょっと自分の中で考えてみようと思う。
考えられた事は
1つは、
あまりに強いエネルギーが、その教会を取り巻いていた。
何人いたかわからないけど100人はこえていただろうと思う。
多くの人たちが、「神様」という存在のために、
歌い、祈りをささげていた。
そして、それはとてつもなく美しく、
一人一人の表情は静かに輝いていた。
とにかくそのエネルギーが私の体と心を苦しいくらいに
美しいいい意味で圧迫し
涙で流れたのだと思う。
2つは、
私は、洗礼をうけたことはないし、信者ではないが、
幼稚園から、高校までクリスチャンの学校に10年以上通った。
そこでは、毎朝お祈りをし、帰りも祈った。
そして一週間に一回はかならずミサがあった。
そのときはなにもかんじなかった。
「自分が神様を信じてるのか?」という疑問さえ感じなかった。
ようは何も考えてなかったのだが、
でもやっぱり当たり前のようにシスターが神様の存在を話、
週に2回の宗教の時間には、バイブルを読んだ。
バイブルには、いろいろな教えがかかれていて、
いくつかのものはただのきれいごとに見えたし
いくつかのものは、確かにその通りだと納得するものもあった。
朝、夜のお祈りでは、自然に神様に祈りをささげていた、
「神様、今日バイオリンのレッスンで怒られませんように」とか
「神様、今日はママに部屋片付けろって怒られませんように」
とか、小さなことの祈りだったが
子供なりに無意識に神の存在を
信じていた子供時代を思い出す。
今日の教会での空気の感触が、私にその10年間を思い出させて
走馬灯のように、いろいろな思いがよみがえった。
3つは、
教会には、そこにいるすべての人々の基盤があった。
牧師さんの話すことば一つ一つ、
そして、バイブルの中の言葉一つ一つ、
すべてそこにいる人々の共通の基盤だった。
私には、家族という大きくて強い基盤がある。
でも、その家族の一人はこの四月にこの世界を離れてしまった。
きっとひとりひとり、私の基盤である家族は、
この世界からはなれていく。
私はきっと一人で、一人一人を見送っていく。
そうなったときに、私の基盤はどこに存在するのだろう?
っと、とてつもない不安にかられた。
いろいろ、もっともっと書ききれないくらいのことをかんじたが、
おなかがすいた&宿題があるので、この辺にして
またかこうと思います。
とにかく、教会でのすてきな経験でした。
できる限り彼らと毎週いけたらなと思います。

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